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おばさん社労士の発信基地 きぼうという名の事務所です。

開業してからまる13年「発信する社労士」を目指して「独立独歩」「自主自立」の活動をつづるブログです。

「溜め」のある社会を目指して 『反貧困』を読む(2)

昨日の続きです。

この本の中で著者は貧困状態に陥っている人には五重の「排除」があると書きます。

①教育課程からの排除、背後には親世代の貧困があります。

②企業福祉からの排除、多くは非正規雇用であり低賃金、不安定雇用というばかりでなく、雇用保険、社会保険からも排除されています。

③家族福祉からの排除、親や子供に頼れない場合がほとんどである。

④公的福祉からの排除、若い人には、「まだ働ける」「親に養ってもらえ」、母子家庭には、「別れた夫から養育費をもらえ」、「子供を施設に預けて働け」、ホームレスには「住所がないと保護できない」と、追い返すことばかりが横行する生活保護行政、

⑤自分自身からの排除、①から④の排除を受け、しかも自己責任論により、「自分のせい」と尊厳を失い自分を大切に思えない状態に追い込まれる。その結果が自殺であり、又は何もかもをあきらめた生を生きることとなる。

⑤こそが貧困問題を理解するための重要なポイントであると著者は書きます。

「そんなふうに考えなくてもいいじゃないか」、「自分は絶対そうならない」などと考えてしまうからだと言います。

この本の中では、ノーベル経済学賞を受賞したアマルティア・センという学者の「貧困は単に所得の低さというよりも、基本的な潜在能力が奪われた状態」という貧困論が紹介されています。それは選択できる自由と深く関わっています。

 

著者はこれを「溜め」という言葉で語っています。

大きなため池があれば、多少の日照りがあってもあわてなくて済みます。

逆にため池が小さいと、少しの日照りで田畑が干上がり、深刻なダメージを受けます。

この社会では、有形・無形の様々なものが「溜め」の機能を持っています。

わかりやすいのはお金ですが、それ以外にも頼れる家族、友人、親族などの人間関係、「自分は何かができる」というような自分に対する自信や自分を大切にできる気持ちも精神的な「溜め」となります。

 

貧困とは、これらの「溜め」が総合的に失われ、奪われている状態なのです。「溜め」を失う過程は、様々な可能性から排除され選択肢を奪われていく過程です。これらは、「他の選択肢を等しく選べたはず」という前提で成り立つ自己責任論とは相容れないものなのだと著者は書きます。

五重の排除という背景、「溜め」がないという状態を理解できれば、貧困には自己責任だけでは片付けられない多様な要因があるということに思い至るのです。

貧困が大量に生み出されるということは、「溜め」の少ない社会の証であり、人間が人間らしく再生産されないため決定的に弱い社会です。そのような「社会」には持続可能性はなく、だからこそ貧困は社会全体の問題なのです。

 

この本の中では、フリーターの就労支援策として設置された若年者向けのハローワーク「ジョブカフェ」運営の再委託を受けたリクルートが、日給12万円という人件費(プロジェクトマネージャーの日給、事務スタッフでも5万円)を計上するなど、貧困者をダシにして結局役人の天下り先を増やし、企業を儲けさせるだけのこの国の構図についてや、貧困ビジネスともいえる日雇い派遣のからくり、著者の運営するネットワークに、ワーキングプアの若者をターゲットとした自衛隊の募集担当者がアプローチしてくるなど、「へぇー」と思うような、私の知らなかった話などがてんこ盛りで興味深く読みました。

アメリカでは、戦場に駆り出されるのは「軍隊に行けば大学にも進学できるようになる」と考える貧しい若者が多いのですが、「溜め」のない社会は、実は戦争に直結しやすいという危険もはらんでいます。

 

著者が目指す支えあい、連帯する社会は、個人、団体、社会の「溜め」を増やし、政財界に言い逃れをさせないための、「もの言う支え合い」であり、「意義申し立てする社会連帯」です。

私たちひとりひとりがそこに目を向け、考え、共感する心を持つことが第1歩になるのだと思います。

この本の第1刷は今年の4月22日です。私が買ったのは第3刷で5月15日発行です。わずかの間に版を重ねていることにちょっぴり救いを感じました。

〔管理人注〕この記事を書いてから約4ヶ月たちましたが、この著書が第8回「大佛次郎論壇賞」に輝きました。現場感覚に根ざした鋭い考察を今後も続けていただいて、私たちを啓蒙していただきたいと思います。(2008年12月15日)

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