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おばさん社労士の発信基地 きぼうという名の事務所です。

開業してからまる14年「発信する社労士」を目指して「独立独歩」「自主自立」の活動をつづるブログです。

戦争の傷跡と向き合った1人の医師

昨日、長崎の平和祈念式典で麻生首相が「癒すことのできない傷跡を残すこととなられました」との挨拶で、「きずあと」を「しょうせき」と読んだと、またまた新聞に書かれていました。

この人は文章を言葉として読まず、字面を追っているだけなのかなと哀れささえ感じます。

戦争の傷跡というのはいろいろなところにあるのだろうと思いますが、昨晩、NHKの教育テレビで見たい音楽番組を見た後、始めは見るとはなしに見ていた番組にぐんぐん惹きつけられました。

まさに戦争の「傷跡」と向き合った1人の医師の記録でした。

第二次大戦中、国際条約で禁止されていた毒ガス兵器を日本軍が使ったという記録がアメリカで明らかにされていますが、戦時中、その毒ガスを作っていたのは瀬戸内海の小さな島です。

軍はこれを隠すために地図からその島を抹消し、住民には口止めをして、兵隊や徴用した人々、近隣から集めた貧しい農漁村の人々を使って毒ガスを作成しました。

敗戦が決まると軍は全ての資料を燃やし、工場も破壊してそれらは闇に葬り去られたかに見えました。

しかし、戦後数年たったころからその工場で働いていた人々が毒ガスの影響で、重篤な慢性気管支炎や肺気腫を患い社会問題化します。

政府は一時元兵隊や軍族など軍関係者だけを補償しますが、後にようやく一般の人にも医療手当てが出るようになります。

 

これらの人々の診察を一手に引き受けていた病院に大学院生時代に赴任し、その後、赴任当時の院長亡き後、後任の医師も派遣されない中、1人で診察をして患者が補償を得られるように奔走した医師、行武正刀氏の記録を放送したのがこの番組です。

行武氏は昼は次々と訪れる患者の診察、夜は補償のための申請書の作成、週末は毎回100通にものぼる申請書を携えて、東京の役所に行くという生活を続けました。

メディアに取り上げられた時に患者の救済を訴え、「上からとがめられ」ます。いっそ辞めてしまおうかとも思いますが、この仕事は自分にしかできない、誰にもやらせるもんかと開き直ったこともあったそうです。

毒ガスの後遺症は長い時間かかって悪化することも多く、1人の医師が40年以上にわたって記録してきた6,800人のカルテは非常に貴重な資料となります。

今では、イラン・イラク戦争で使われた毒ガス兵器の後遺症の治療に当たる医師たちの指標ともなり、行武氏はイランの医師にも惜しみない協力をしています。

 

患者と接するうちに行武氏は聞くとはなしに聞いた患者の話などをカルテに記録するようになります。

「健康に不安を感じ辞めたいと申し出ると、憲兵が家に来て何度もなぐられ、泣きながら自転車で工場に通った」というようなひとりひとりの当時の生々しい心情がカルテに書き込まれることになります。

氏は、これは貴重な記録として後世に伝えるべきだと思うようになり、記録をパソコンで整理して本にしようと考え、折をみて膨大な記録の整理をしていましたが、今年3月病で帰らぬ人となります(享年73歳)

1人の医師が歩いた長い一本の道。

生前、「私は医師としては非常に狭い範囲のことしかできなかったけれど、後悔はありません」と語っています。

私はこのような方がいたということに心から感動しました。

お父様の遺志を息子さんや娘さんが継いで記録の整理をなさるようなので、よかったなあと思います。

私たちは戦争の傷跡から目をそらすことなく見つめ、平和への思いを強くもたなければいけないんだとあらためて思いました。

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